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独「ここ」論

category: ◆geography

以前に、独我論と独今論は成り立っても独此論(独「ここ」論)というのは成り立ちそうにないのは何でだろうと考えてみたことがある。

その時のひとまずの答えは、独「ここ」論というのは独我論にすっぽり収まって完全に代弁されてしまうから、というもの。西田幾多郎の「絶対無としての場所」っていうのは、大ざっぱには、独我論の「私」を空間的な言葉に置き換えたものという風に理解できるのではないか(永井均さんの『西田幾多郎―<絶対無>とは何か』を僕はそう了解した)。ウィトゲンシュタインが、純粋な独我論が徹底されると唯物論と区別が付かなくなる、というようなことを言っていたらしいが、要するにそれも、私の独在性を徹底させたら私がいないのとほとんど一緒になる、というような(入不二基義さんが『ウィトゲンシュタイン―「私」は消去できるか』で触れていたような)ことを言っているのだろう。とすれば、場所が結局は無だというのもこれと同じような感じに理解できそうだ。

---ここから挿話。
独我論と唯物論が無限接近するということを感覚的に理解できるには、ちょっとした思考のトレーニングがいることはいる(僕の場合には、少なくともそれが必要だった)。まず、全ての出来事は僕に対して生じている物語のようなもので、僕だけが唯一特別な認識の主体だ、と考えるようにしてみる。すると、僕以外のものは、鉛筆も石ころも素敵なあの人も大嫌いなあのおっさんも、みんな所詮はモノゴトである。他人の感情や思考というのは、他人の体という物体の中にある他人の脳味噌という物体で生じている、無数の分子というモノが起こす化学変化だ。さて、こんな風にみんな所詮はモノであると認めてしまうと、僕の体やさらには「みんな所詮モノである」という思考プロセスも、やはり何かのモノゴトであるとしか考えられなくなる。精確には、そう考えると都合が悪くなる、というマイナス材料が、存在しなくなってしまうのだ。僕の体というモノの中にある、僕の脳味噌というモノの中で無数の小さい分子というモノが動き回って起きる化学変化の結果(モノゴトの「ゴト」の方)がこの思考のプロセスだ。独我論はこの「この」だけがモノゴト化されていない、という点に拘るわけだが(まあ、敢えて言えば「モノゴト」ではなく「デキゴト」になるのかな)、この「この」もまたそういう種類の(あの人のあの脳味噌の中の、とは別種の)モノにすぎない、と言うことは出来る。いずれにしても、こうやって独我論を徹底させた帰結と僕が一種のモノゴトであるという事とは、実はかなり似通ってくる(独我論を徹底させると、「この僕」の「僕」ではなく「この」の方が残ってくるという感覚が前提になってはいるけど)。
---挿話はここまで。

独我論において特権的な「私」の対極は何か。「他者」なんかではありえない。「私」の対極は「あなた」しかありえない。他者は所詮既にモノゴト化されてしまったもんにすぎない

---もう一つ挿話。
社会学は「他者」を語ることは出来ても「あなた」については語れない。この辺の制約が、純粋に良心的で単にそのように生きようとするだけの人が「社会学者」を務めようとするときに、その「社会学者」に余計な負担を強いている遠因なのではないか、と思わずにいられない。いろんな「社会学者」さんを見ていて、良心的な「社会学者」ほど、何となく学者としては余計に苦労をさせられているような印象を受ける。ちなみにここでの「社会学」は狭い意味の社会学ではなく、今の時代を人文社会科学に携わりながら生きている、という「自覚」を持ちつつ人文社会科学に携わっていいる人全般を意味しています。ただし、僕は除く。
---もう一つの挿話はここまで。

さて。ここまでが過去の思考のダイジェスト。
で、今日の発見。

今僕が考えている独「ここ」論の「ここ」とは、上の挿話の中で言うと、「この」に当たる。「この」がモノゴトではないとしても、それはもはや「僕」と同一でさえもありえない(「僕」は所詮、モノゴトの一種である)。とすれば、もはや「僕」ですらないような「この」っていうのは、何もない場所だけを指しているとしか言いようがない。「この僕」というのを、「ここにいる(在る)僕」と読み替えて、独「この」論ではなく独「ここ」論と呼んでおく

---さらに挿話。
「この」を「ここ」に、つまり修飾語にしかならない連体詞を、名詞の一種である代名詞に読み替えたくなるこの衝動にも、ちょっとした病気(あるいは一つの世界の限界)のようなものを感じる。世界は名前で出来ているのであって、「ここ」がなければ「この」は生まれない。「この」だけがあって「ここ」が無い世界は考えにくい。そんな感覚がするがその根拠を説明できない。

---さらに挿話、ここまで。

それで、そんな独「ここ」論なるものが独我論に完全に還元されてしまうとして。

「私」は一人称で、その対極は二人称の「あなた」。独我論の「私」が独「ここ」論の「ここ」に対応するのなら、独我論における「私」にとっての「あなた」(つまり独我論の究極の外部)の独「ここ」論の対応物はなんだろう。

「あなた」は漢字に変換すると「彼方」、つまり「かなた」にもなるのだな。

「ここ」の対極は、たしかに「かなた」でしかありえないのである。「そこ」でも「あそこ」でもないのだ(それらも地理学で言うところの「空間的スケール」さえ拡大すれば、結局は「ここ」に回収することが出来る。同心円的世界観である。)。「そこ」や「あそこ」は第三人称の世界である。そして、地名によって分割される空間は、「ここ」と「かなた」のその間を占める、「そこ」と「あそこ」の領域だけなのだ。西田もそう言えば「私と汝」なんて論文を書いているけど、日本語というのは凄い。

日本語の空間でしか成り立ち得ないような地理思想というもんが確かにあるかもしれない。そんな妄想をつい抱いてしまう。

余談だけど、修士の時に「政治地理学の(不)可能性」というタイトルの修論で結局明らかにしたかったことは、ここで使った語句で言い替えると、これまでの地理学は「そこ」や「あそこ」の政治については語ってきたが、「ここ」の政治については少しも語ってこなかった、ということ、ただそれだけだった(10万字も費やして)。今、「ここ」が語れないということと「あなた」=「かなた」が語れないということは同根なのだな、ということも感じ始めている。そして、「かなた」の時間的な対応物を考えると、それは「未来」と言うことにもなる(もう一つ、永井均さんがフーコーになぞらえて使用した、「考古学的過去」という言葉もあるか・・・な?)。

修論のタイトルに反して、地理学が「ここ」や「あなた」について語ること(つまり、政治的なことを語るのではなく、プラクティカルに政治的であること)は不可能ではない、と今は思っている。それは、他者に理解されるように務めた結果叶わずに、諦めて「今ここ」に没頭して書いた結果、たまたま「あなた」がそれを拾ってくれたからだ。単に事実がそうだったってだけ。

想定できそうな読者なら所詮「モノ」だ。妄想や約束事の中で読者を想定して書くよりも、今ここに埋没してモノを書く方が、はるかに緊張感があって楽しいよな。「あなた」に受け入れられようが受け入れられまいが、それだけは間違いなさそうだ。

2007/05/16 23:24 Wed | edit? | trackback(2) | comment(0)


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フリーランスの地理学者です。ひとり家庭教師派遣業のほか、NPOやコミュニティビジネスをターゲットに、ひとり人材派遣業もやってます。

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