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久しぶりに、ルフェーブル、ハーヴェイ、ソジャらの名前が登場するちょいとハードな文章を目にして、しばらく読んでみた。 相変わらず、響かない。 そして、響かない理由について、今日新しい解釈を思いついた。この手の空間論を分析的に読解して理解する立ち位置に僕が位置しているのではなく、むしろ僕はこの手の空間論に分析され読解される立場にポンと投げ置かれているからなのだ。 人間は水槽の中の金魚を愛で観察し記述することが出来る。しかし、それは金魚からしてみれば、完全に世界の外部のことなのだ。僕は一匹の金魚で空間論は水槽を外から眺めて僕を記述する。その記述が意味をなすのは、水槽の外に身を置くものに対してのみなのである。 果たして、水槽の外だけで意味をなすかに思える空間論が、この水槽を我が世界我が場所として引き受ける金魚にとっても固有の意味を持つということが、ありえるのだろうか。ありえないように思える。 あるいは、こういう反問の仕方も出来るだろう。空間論者達は、この時代それぞれに固有の場所で空間について論じ語り、その言葉を流布させているわけであるが、その一連の営みはまさにその空間論の中のどこに位置づけられどのように解釈されるのだろうか。 再度、水槽の金魚と人間にたとえるならば、金魚を眺めて観察分析記述する人間もまた、この宇宙(世界でもよい)という大きな水槽に内在しているわけだが、金魚を眺めて観察分析記述するのに功を奏した理論は、この宇宙の中の人間を人間自ら眺め観察分析記述するのにもまた有効であり得るのだろうか。 空間論は、特異点から降りて野に下る覚悟を持っているだろうか。 ・・・今日のBGM・・・ 春のきざし/TAKETAKE 2012/03/26 03:14 Mon | edit? | trackback(0) | comment(0) CommentTrackbackURL : http://geophil.blog84.fc2.com/tb.php/1988-19e17986 |