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Cuatro Dragons
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方舟ラプソディ

category: ◆essay

自己顕示欲の赴くままに突っ走って突っ走って突っ走りきって、それを周囲も当人も努力の証と盾にとって、後ろに積み重ねてきた屍の山までも全て正当化してしまうかのような、そういう走り方は好きでない。

日の当たるところではええことを言いながら、日陰のミクロではひどいことばっかりやっている。それでいて実際の所は本当にやりたいことが出来ているわけでもなくって、その不満を「多数に支持される気持ちよさ」で慰めているだけだったりする。

この循環が一度加速しだしたら、どうやら、簡単には止まれないんだろう。あれよあれよという間にどんどん巻き込まれていって、まるで何か悪魔でも取り憑いたかのようにあっという間に遠くの世界へ飛んでいってしまった人を、何人か知っている。

人は、黒いところへ、人がたくさん集まって真っ黒になっているところへ、吸い寄せられていくんだよな。

自己顕示欲の赴くままに突っ走って突っ走って突っ走りきる。

「俺についてこい」

「私についておいで」

ついていった先にあるのは方舟というよりは狂信者のジャガノートだ。

常に我が身が批判される状況に、それも直接に批判される状況に身を委ねる勇気。すなわち、自分で自分の悪さが痛感されているときに、自分の良さを好意や愛情とは別の動機から適切に指摘してくれる人のそばにいること。そして、自分で自分の良さがよく見えているときには、自分の悪さを悪意や利己的な動機とは無関係に指摘してくれる人の隣に身を置くこと。

「調和」や「共感」ばかりが美徳化されているが、もうちょっと「批判」ということの正しい意味の方をきちんと救済して美徳化する文化をこつこつ積み上げていく方が、よっぽど健全だ、と思います。そんな努力が虚しく困難に見えるとしたら、それは、この社会が哲学を高等教育や専門学術研究に閉じ込めていることの弊害なのかもな、という気もしますが。

まあ、「この社会が~」なんていわなくても、少なくとも僕の周囲には、有り難いことに良き批判者がたくさんいて下さってくれてますので、それで満足としていれば良いんでしょうね。自分に恵まれている環境を他の人たち(=社会)みんなにも、ってのもまた自己顕示欲から出てくる発想ではあるから。あとは、自分が誰かの良き批判者でいられるよう精進するくらいなもんで。

・・・今日のBGM・・・
 天井/ハンバートハンバート
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2011/03/07 23:51 Mon | edit? | trackback(0) | comment(2)



サブイベントとしての哲学

category: ◆essay

深夜に精神が現実逃避したくなったか、無性にFFIXで遊び直したくなった。(もちろん、大人社会人の分別があるのでやりません)。

FFIXは、最初あんまし好きでなかった(アルティマニア=ガイドブック無しでやったんで、今ひとつ世界を深いところまで覗けなかった)。でも、去年だったか一昨年だったか、久しぶりにリプレイしてみて、こりゃ秀逸だなぁ、と思った。VIIよりも、良いよなあ。

何がというと、世界観とその背景をなしている生死観。それと、サブイベントがあってそれぞれのキャラの世界が立体的に感じ取れるようになっているのも、いい。(最初遊んだときは全てのサブイベントを見られる順番を知らなかったんで、もう一つに感じられたのでしょう、きっと。)

FFVIIIからの流れでもあるけど、ゲームマップ中に作品で全く語れれることない地名(自然地形名)がちりばめられてるのもいい。

ロマサガ2やサガフロもずいぶん哲学の種や着火剤にさせてもらったけど、この作品にも世話になったな。

と、考えたところでふと思考がメタに走って、まあ哲学なんて往々にしてこういうどうでもいい思いつきから始まるもんだけど、それ自体この生にとっちゃサブイベント以外の何もんでもないよな、ということに気付く。

別にクリアすることにとって何の意味もないんだけど、ちょっと世界が深く広くなった気はする。ただ、世界を深く広くしなければクリア出来ないなんてことがあるわけでもない。

もうちょっと、ちゃんと時間割いてサブイベントこなせるようにしたいなぁ。目先のことだけで目一杯な生活だけど、世界は目先の目一杯で尽きているわけではないんだろうし。もしかしたら、目先の目一杯、ゲームクリアするということ自体がサブイベントやミニゲームみたいなものかも知れない、という想像力を持っておくことは、精神衛生上も悪いことではないしなぁ。

…。

このゲームクリアするためには、寝ないといかんので、そろそろサブイベント終わり。落ちます。

・・・今日のBGM・・・ 
 歩く人/栗コーダーカルテット

2011/01/13 02:36 Thu | edit? | trackback(0) | comment(0)



学問の才能~山月記に思う

category: ◆essay

僕には学問の才能がそれなりにある、と思う。

何を根拠に、と問われれば、ごくたまに、一応は学者である人に対して「この人には学問のセンスがまるでない」と直感的に思ってしまうことがそれなりにあるから、だ。自分では分からんが、その直感の根拠を問い詰めれば、「自分にはセンスがある(と自認している)」と言うこと以外には考えられない。

当然だけど、こういうことをヌケヌケと公の場で語る学者はほとんどいない。せめて、ホントは表で語らないだけで腹の底では自信に満ちあふれているのならマシだけども、どうもそんな風にも思えない。

自惚れを、どの程度の自惚れであるかの分析も省察もないままに自戒するのは実に簡単だ。「いやぁ、私なんかホントに不勉強で~」なんてヌケヌケと言ってれば済む。研究の世界に足を踏み入れたとき、足を踏み入れたばっかりのオイラに向かってええ歳してええ地位にいる人がヌケヌケとそう言う場面に何度も遭遇した(そして、かなりの割合で「この人には学問のセンスがまるでない」と思わされた)。

「謙遜パフォーマンス」という抜け道を覚えてしまった人間には、学問のセンスを向上させるチャンスは訪れるはずがない。李徴のように、虎になってしまうくらいの傲慢さを持たないとねぇ。最初から虎になるリスクを背負えないのなら、学問なんて志すなかれ。

ただ、詩才とはまた違って、学問の才能って、人を惹きつけるものを作る才能というよりは、人を避けて虎になることそれ自体を受け入れられる度量のことなんじゃないかという気もします。山月記で虎になった李徴は、その後何度となく転生し、ペネトレあるいはアインジヒトはたまたインサイトに生まれ変わったのではないかしら。

奥山の猫またなるもの、の別名かもね。そういや兼好法師もまた、学問の才能を体現した古典時代の巨匠だよなぁ。

_______

やっと『薔薇の名前』を入手。しかし、いつ読む気だね、泉谷くん?

・・・今日のBGM・・・
 虎/ハンバートハンバート

2010/12/07 02:43 Tue | edit? | trackback(0) | comment(0)



燗酒の分子運動

category: ◆essay

熱の正体は分子の運動である、ということの意味が、今日物理の参考書を読んで、ようやく理解できた。

物質を作ってるツブツブがね、いろんな方向に向かって運動してるんだって。で、高速で運動してるツブツブが、別の物質を作ってるツブツブに高速でぶつかれば、今度はぶつかられた方のツブツブがね、元々の速さよりも速いスピードで動き出すわけね。この、速さが、熱だっていうのね。

酒を燗につけるっていうのは、要するに、高速で運動している水のツブツブを、ちろりを構成しているスズのツブツブにぶつけて、そのエネルギーをスズの内側にある水やアルコールなど酒を構成している色んな物質のツブツブに間接的に伝えることで、酒のツブツブをより高速で動かすってことなのですね。

すごいよなぁ、すごいこと思いつくよなぁ、と思ってしまったのだが(そして、このことを理解した人はおそらくみなそう感じるのではないかと思うのだが)、集合としての人類がそのことを知るに至るまでに要した長い年月と多数の人たちの実験や思考を考えれば、この「すごいよなぁ」は、むしろその事実ではなくて、その積み重ねによって引き起こされた「認知の叫び」(ウィトゲンシュタイン)であるような気がします。

どっちにしても、人類が長い年月をかけて得た知識を、参考書なるものから比べものにならないほど短い時間で学ばせてもらったゆえの、その時間と労力の重みのギャップって、途方に暮れて「すごいなぁ」とでもいうより他のない強度を持ってる。

一度こういう得心の仕方をしてしまうと、「クオリア」という概念は何かまやかしというか蛇足というか、必ずしも必要ではない「違った説明の仕方」にすぎないような気がしてしまう。分子の運動なんて、燗酒を口にしたときに感じる「温かさ」や火にかけてある鍋を触ってしまったときの「熱さ」とは全く異質だし、それゆえどうしても「温かさ」「熱さ」そのものが説明されていないような気がするわけで、そこから「クオリア」という考え方が出てくるんだろう。けど、これって、お天道様が地球の周りを回ってると信じていた人たちが、コペルニクスやガリレオに向かって、「『お天道様が回ってる』という考え方の方が自然な感じがするけど、地球が回ってるのだとすればその『自然な感じ』が説明できないではないか」と言うのと、もしかしたら一緒なんではないか。

「クオリア」という概念に有効性があって、そこに科学が問題にすべき必然性が含まれているのであれば、なぜこの言葉(あるいは機能的に等価な別の言葉)が、例えば天動説から地動説へのタイミングやあるいは進化論の登場のタイミングの時に、出てこなかったのか。そしてそれ以降なぜ生き延びて多くの人たちに科学の知識として学ばれることにはならなかったのか。

その辺噛みしめて理解したければ、もしかすると、脳研究の科学史をある程度知っておかなければならないのかも知れない。

ただ、「クオリア」なる主観的体験が、「主観一般においてあまねく例外なく成立する」類のものであるなら、それはやはり蛇足なのではないかという気がしてなりません。そういうものに対しては科学的概念を装った言葉よりも、科学的ではない詩歌や文学や哲学や音楽などが適任なんじゃないかな。

・・・今日のBGM・・・
 なごり雪/イルカ

2010/02/13 00:40 Sat | edit? | trackback(0) | comment(6)



社会学者工場

category: ◆essay

大阪のある街に行くと、どうもその街に縁がなかった人もちょっとくらい縁のあった人も、みなこぞって社会学者化する傾向があるようだ。

言い方を変えると、学術の専門家とそうでない人とで、この街に来て感じ考える何かに、知的な重みの差はそれほどあるわけではない。その人が歩んだ経緯によって、その表現の仕方は変わるかも知れないけど、学術の専門家であるからこそ、そうでない人とくらべて何かをより深く重く感じ取っているということは、まるでなさそうである。逆に、学術の専門家の方が鈍いということは、もう少し丁寧に検証してみないと否定できないかも知れないが。

存在の生々しさ、実存の強度によって、社会学的な知性をどこかへ吹っ飛ばしてしまうようなパワー。それでいて、そうやって吹き飛ばすことで、かえって人間を実存的に非力な一個の社会学者にしてしまうパワーがある。

ただ、教訓として忘れちゃならないのは、この街が見せるそういったパワーは、単に極端なだけであって特殊なわけではない。この街ではないどんな場所にだって、受けとめる側の感性次第では、あらゆる人を社会学者にしてしまうような契機なんて携帯の電波並にいくらでもあふれている。

だから、大いなる学びの場ではあっても、それを決してブランド化しちゃならない、と思う。あるいは、ブランド化してしまったんなら、その分だけはこの街に何かを返していくべきだろうな。

できれば、既存の学術研究におけるアウトプットっていうのとは、全く別の形でね。でないと、この街はおそらく修了証書を出してはくれないだろうからね。

社会学的な知の表現を通じて、社会学の修了証書を認定するシステムが存在するような社会それ自体を新しく創発していくのでなければ、本当にオリジナリティのある社会学とは言えないよね。

どうかな。反社会学的?

・・・今日のBGM・・・
 台風/THE BLUE HEARTS

2009/10/07 23:53 Wed | edit? | trackback(0) | comment(0)



車海老はいつ死んだか

category: ◆essay

最近ちょくちょく行くお寿司屋さんにて、カウンターで寿司つまみながら飲んでました。

並びのお客さんが注文したんでしょうか。大将のまな板の上に、二本の車海老が運ばれてくるやいなや、「トン!」と音がしたかと思うと、車海老が重ねて四つに斬られます。活け車海老の握りです。

重ねて四つになった海老は、活きがいいので、頭とシッポ、それぞれぴくぴくピチピチとまだ動いております。頭の方はコンロの上で塩焼きに、そして、シッポの方は皮を剥いて握りのネタに。

頭とお別れになってしばらくたってから動かなくなったかと見えたシッポの身は、皮を剥かれた刺激からか、また間断的にピクピクと動き出しました。シッポの先は、車海老独特の、鮮やかな黄色と青のまま。そうこうしてる内にすっかり火の通った頭の方は、完全に焼海老の桜色。

やがてシッポの先は鮮やかな黄色と青のまんまの生身は手際よく握られて、上品な二貫の握り寿司に。頭はレモンを添えられて塩焼きに。

そして、きっと誰かの口に運ばれて、「美味しい!」の一言が、本当の車海老の断末魔。

なんてこと思いながら、ちびちび飲んでいたお隣のお隣くらいで、若いカップルの女性が

「うわ~、すご~い、ブラックタイガーや~」

と、とってもハイテンションでした。

そして、二貫の車海老の握りは、そのカップルの前に並び、二人の口に運ばれていって・・・

「美味しい!」

断末魔。

海老にとっては人間がどんな名前をつけようが知ったこっちゃない。海老の死が人の喜びに変換されればそこに何かが流通はしているわけです。それでいいのです。

ただ、「ブラックタイガー」と「車海老」の違いにこだわって一所懸命仕事をしている人たち(漁師さん、魚屋さん、料理屋さん)の魂は・・・少し浮かばれないかもね。

そんな僕のよしなしな考え事も、ブラックタイガーの美味しさに舌鼓のカップルの感動もよそに、もくもくと握り続ける大将だったのでした。

人の口に入るものに関わる仕事って、「美味しければなんでもいい」と、「何でもいいだけじゃ美味しくない」とのビミョ~なバランスの上に成り立ってる、なんとも素敵なお仕事だなぁと思います。どっちかに特化しちゃだめなのね。最終的には自分一人の覚悟でもって、両者の決めかねるバランスを決めてかからなきゃなんない。

ちなみに、ブラックタイガーは車海老と近縁で、食べたことはないけどおそらく天然活けなら車海老と遜色のないお味と思われます。僕は、車海老系は生よりも少し加熱した方が好きですが(生ならアカエビやボタン海老など甘エビ系の方が好き)、もしチャンスがあれば天然ブラックタイガーの活けというのも食べてみたいところです。

_______

今日の日記、一部のエピソードはややフィクションです(「ブラックタイガーや~」まではノンフィクション。)。実在の人物とは関係ありません。あるいは少ししか関係してません。

・・・今日のBGM・・・
 オフィーリア/carnation

2009/07/05 23:27 Sun | edit? | trackback(0) | comment(0)






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geophile
フリーランスの地理学者です。ひとり家庭教師派遣業のほか、NPOやコミュニティビジネスをターゲットに、ひとり人材派遣業もやってます。

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