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Cuatro Dragons
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書き手の言うのとは違う意味で感謝する

category: ◆geography

http://news.goo.ne.jp/article/insightnow/bizskills/insightnow-6734.html

ストンと腑に落ちた議論でした。

かつ、地名が固有名であるということと、固有名にまとわりつきがちなある種の「ファン心理」やそれの肥大化したものとしての政治の問題、などなどをストンと腑に落とすための処方箋の目処がなかなか立たず、個人的に悶々としていたところに、一つのきっかけを与えてくれたような気もします。

地名を政治的なものと結びつける議論は数多あるものの、そのどれもが何かちょっと物足りないなと思っていたのですが、その理由がちょっと分かりかけたかもしれない。

つまり、地名が政治的なものと結びつくということを純粋にコトバと理論で表現する(つまり、哲学する)には、地名の側からは「地名が(いかなる意味で)固有名である(のか」ということと、政治的なものの側からは「ファン心理や恋愛感情は(なぜ)まず固有名に結びつく(のか)、あるいはそれらの対象の名前は(なぜ)必然的に固有名化する(かに見えるのか)」ということをそれぞれ地名と政治の間に飛び石として挟んでやらないと、何やら唐突にマジメな社会思想的議論以上の印象を残さない空論になるのではないか。これが、先に書いた「分かりかけたその理由」を本当に分かるための、今までよりはマシな「問いの立て方」なのだろうと思います。

この考えと、(うろ覚えですが岩波の)哲学事典に記されていた「哲学には一般名としての哲学と固有名としての哲学とがある」という記述とを合わせて考えると、なぜ西洋の哲学が地理学的な問題をここまで蔑ろにしてきたのか、という不自然なまでに誰も問わなかった問題が、また同じフィールドで問題に出来るんじゃないか。前世紀末、ソジャやハーヴェイといった地理学の論客が、社会科学がいかに空間の問題を軽視してきたか(いかに「非-空間的(aspatial)」か)を強調しつつ英語圏社会科学に台頭し始めたちょっと後くらいに、ジョン・アグニューというアメリカの地味な政治地理学者が、そのプロパガンダをもじりつつ、「従来の社会諸科学は彼らが指摘する如く『非空間的』なのではなくて、むしろ『過剰に空間的』なのだ」という趣旨のことを書いていた。いや、おっしゃる通り、とそれを読んだ当時は思ったけど、社会諸科学なんて枝葉みたいなもんで、その謂わば生みの親である哲学そのものが、その実践において固有名と無関係でいられないことが、そもそもの発端なんではないか。(ここでは、哲学と固有名の間に、九鬼周三の『驚きと偶然の哲学』やウィトゲンシュタインの『私的言語』に関する哲学を挟んでみてはどうだろうか。あれ、そういえば、ウィトゲンシュタインも「偶然性について」考えを書き残していたのではなかったかな…?さらに、自閉的アスペルガー的性向と(固有名指向性/嗜好性の強い)オタク的/マニア的な世界との、なんとはなしの親密さとか考えると…さらにそれを人類=脳の進化の必然的な方向として見るとすれば…。この辺はただの感覚論ですが。

何となくそんな予感もしていたけど、僕が解決を見たいと私的に思っている問題は、無理してガリガリやらなくても、こんな感じで世の中の方が先に解決してくれるのかもしれません。もちろん、ここに表現した、(表題の)「感謝」の方は、いわば+αの方だ、という意識でないとだめだろな。でないと、たぶん、欲するもんは与えてもらえない、という予感もします。

果報は感謝しつつ寝て待て、と。

もちろん、世の中の方が先に答えを出してしまった後にも、その問いを実際に自分で解く楽しみ、というのは残されているものです。ピタゴラスの定理の証明を自力で考えついたときのように。(もっとも、解く楽しみが独立しているからこそ、それだけを楽しむなら答えは先に分かっている方が存分に没頭できるのかもしれないですけど)。

・・・今日のBGM・・・
 てんきあめ/スーパーゼリー

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2011/08/24 00:49 Wed | edit? | trackback(0) | comment(0)



研究の世界、研究者の世界

category: ◆geography

研究の世界と研究者の世界は別物だ、という強い実感を持ったのは、大学院飛び出てフリーランスでやり始めた頃の(過去の)僕がなんと言おうとも、間違いなくここ最近のことである(彼=過去の僕もまた、つい最近だと宣うであろうが、それは間違っている)。

そして、大学院飛び出てフリーランスでやり始めた頃の(過去の)僕がそのことをどう自覚していようとも、大学院飛び出てフリーランスで研究やろうという決断は、間違いなく勇気ある決断だったな、と思う。無謀な勇気、ではなくて意味も価値もある勇気だった、と。(彼=過去の僕は反対に、ここまで自信を持ってそうは言えないだろう)

一つステージが変化することで、直前のステージに至った自分の判断が初めて客観的に見えてくるってことは、何度となくあるよなぁ。

これから先、研究やってる人間として、研究者の世界のルールには遠慮する必要がまるでないし、書きたいことだけを書きたいように書けるな、という所に落ち着いた感があります。自分が本当に書きたいことを書きたいように書けば、それは自ずと地理=哲学になるなぁ、と。

「本当に」というのが実は結構私的言語で、それは私的な観念世界での方向感覚のことを意味しています(そのつもり)。私的な「本当に」の意味するところを、敢えてフツーの言葉に直すなら、頭の中での「あっちの方」みたいな言い方しかできないのです。要するに、まあ、頭の中のあっちの方で書きたいことを書きたいように書けば、それは世間で言う「研究」とやらに勝手になっているであろう、と。

もっと言えば、もはやあっちの方でしかモノを書きたいとは思わないであろうという気もするけど、この感覚に確証が持てるには、もう1ステージ変わらないと無理かなぁ。

以前だったら、こういう文脈では「学問」という言葉を使って「研究」という言葉は使わなかった。それは、フリーランスを名乗って自分で公的な〆切も責務もなしに論文を書いていながら、まだどこかで「研究の世界≠研究者の世界」であることを認めきれないところがあったから。でも、今やそのことを認めざるを得ない。

だって、研究してみたくなる問いは、研究者の世界と無関係にいつでも今でさえも僕について回るんだもん。そんで、研究者の世界とは無関係に僕に対してそれ自体として存在するその問いこそが、却って僕をいつも微妙に研究者の世界につなぎ止めていたんだな、多分。

だから、僕がそんな問いへの関心を失わない限り、研究者の世界というのは、僕から見たらこっちから追いかけなくてもいつも向こうから付いてくるかのように見えるのに違いない。そうならないとしたら、僕が学問=研究の心を見失ってるってことなんでしょうね。

今関心があるのは、「数学に地名の痕跡を見出せるか」とか「人工知能にとっての地名」とか、およそ常識的な言語使用の範囲では確定できない問いの影ばかり。問えたら答えを待たずにそこで終わり、みたいな感じになってる。これはこれでまずいな。

「地名なき世界」が存在するなら垣間見てみたい。垣間見られたら、その瞬間、学者としての僕は死ぬだろうな。

__________

研究室の先輩筋の方から「筆名」というちょっと面白いテーマを頂いた。「筆名」というのは、「字」よりももっと小さい範囲、もっと言えば田畑一枚一枚くらいの範囲に付けられた名前のこと。自分の関心に引きつけて、「筆名」は地名であるかどうか、という問いにとても惹かれます。「筆名」は地名であるような気がしますが、なぜそのように言えるのか、ということを明らかにするのはなかなか大変な作業になりそうだ。でも、残念ながら、その方から頂いた論文には、この問いに対する関心はあまり表明されていませんでした。

なぜ地名であるような気がするのか。土地、地表に付けられた名前だから、という理由からではありません。使用者、つまり特定の生活様式を持ち、かつそれに呼応した言語も持つ知性(意識、主体という言葉で言い替えてもいい。あるいはその他でも。読み手それぞれにしっくりいく言葉を選んでいただければ結構)が、「この世界」として自らを位置づけた世界を、直接的に分割して名付けたものだから、というのが当面の答え(今日たまたま読んだ養老孟司さんの『バカの壁』にある、「実体としてのリンゴ=定冠詞付きのリンゴ」と「脳内のリンゴ活動=不定冠詞付きのリンゴ」の一節が思考のヒントになりました)。

・・・今日のBGM・・・
 あかさたな/空気公団

2010/12/20 23:03 Mon | edit? | trackback(0) | comment(0)



現場の市場

category: ◆geography

なんか、同じ区内で地理学の学会関係で大きなイベントがあったようだ。

今日は朝に膝の裏の靱帯あたりを傷めて、ランチ前から晩まで、だましだまし一日仕事。スタッフのみんなもよく動いてくれて、パンはたくさん売れたけど、晩はすっかり坊主だった。明日以降の仕込みやったり、新しい食材試してみたりして、だましだましの仕事も終了。

現場を生産している人から、卸売り人が現場を買って「現場」という記号を売る。それを買った仲卸が、さらに『現場』という記号を売る。そして…その先に公的なポジションで「…『現場』…」という記号を語る人がいる。それは、もはや売られることなく、ただひたすら、無意味に野放図にばらまかれる。

なぜ、売られないか。ただほど高いものはない、からかもしれない。

現場の生産者の地声に対してぐうの音も出ないのに「…『現場』…」という記号を語る人とは、一緒に仕事をしたくない。学者志した日から、一貫している感性かもな。

学者には学者の現場がある。君たちの言う「…『現場』…」は、君の現場ではない。君の現場を見据えろ。そして、そこをこそ語れ。

本当に語ろうとしたとき、背筋が寒くなる恐怖を覚えるかもしれない。

そして、それと向き合うことをこそ、仕事と呼ぶのですよ。

・・・今日のBGM・・・
 あっけにとられた時のうた/たま

2010/12/04 23:50 Sat | edit? | trackback(0) | comment(0)



深夜の一人ソクラテス・カフェ

category: ◆geography

クリプキの思考実験(正確には、僕の頭の中でのその解釈)と、デネット先生の記述とが、帰りの電車で交通事故を起こした。

軽い接触事故だけど、ほっておいてうやむやになると困る。さりとて、きっちり現場検証やる時間がないので、接触事故の記録だけ留めておくことにする。

まあ、それでも、その見返りに、内包と外延という概念がちょっと理解できた気がしたのが救い。

「アリストテレスはアレクサンダーの師ではなかった」
「プラトンはアリストテレスの師ではなかった」
「ソクラテスはプラトンの師ではなかった」
「ソクラテスはギリシア人ではなかった」
「ソクラテスはブラジル人だった」
「ソクラテスはジーコのチームメイトだった」

…ん?あれ?

「アリストテレス」はともかく「ソクラテス」の外延て、何なんだ?いや、『「アリストテレス」はともかく「ソクラテス」』なんて言えるのなら、そもそも「アリストテレス」の外延だって、同じく「何なんだ」になっておかしくないんじゃないか。

結局、「地名に関わる思考実験を考えたい僕」は、論理学や分析哲学とは同じ問題を共有していないし共有も出来ない。同じ問題を共有している立場からは、思考実験に向いた記号と向いていない記号とを見分けることが可能なんだろうけど、共有しない立ち位置からは、そこがよく見えない。よく見えないから、「アリストテレス」が例に出されたときに「敢えて乗っかる」のでなければついていけない、ということになる。ついていけなくなった結果(「敢えて乗っかる」精神力が潰えた結果)、ソクラテスがブラジルの名選手の方へと脱線するわけです。

「地名に関わる思考実験を考えたい僕」としては、固有名という概念および「地名は固有名だ」という想定自体が、(一般常識に反して)間違っている、と言いたい。(そこまで挑発的に言わなくても、少なくとも地名が何であるかを真面目に考えれば、その想定は不都合で理に合わないことが多い)。

というわけで、クリプキとは問いが異なっていて、そのための道具立ても異なるわけなのですが、この「違い」それ自体を問うことには、地名を問うことの範囲内でも大いに関心があります。だからこそ、ピエール@ロンドンは執拗に僕の関心事の一つなわけです。

「内包」と「外延」という概念を使って、地名について考える試みは、またいずれ個人的に。
___________

結局、接触事故の記録だけのつもりが、現場検証を越えて、さらにそのさきの事件にまで首を突っ込んでしまったかのような。以下のような手がかりも得ました。また一つ、違うステージに進めた気分。

上林洋二さんの論文「固有名の意味論」
wikipediaより「コピュラ」

上記の論文など読んでいると、先の僕の論文、とりわけ「ネーベルスタンはグリューゲルからフォーゲラングまで云々~」のくだり、言語学の予備知識などなしに自力で考えた割には、そこそこ良い線いってたみたい。

ついでに、一年ほど前に、この論文では日本語特有の「は」と「が」の使い分けの問題をスルーしていたことが気になっていたので、その宿題を片付ける手がかりも得られそうです。

瓢箪から駒だなー。というか、転んでもただでは起きなかったというべきか。

・・・今日のBGM・・・
 オールドロッキングチェア/栗コーダーカルテット

2010/09/27 01:19 Mon | edit? | trackback(0) | comment(0)



世代間地理トーク

category: ◆geography

先日、最新の高校地理の地図帳を開いたら、アラル海が真っ二つになっていた。ついでにチャド湖も半分くらいのサイズに…。

地球環境の行方を心配する前に、世代間で同じ地物名を共有できないことの問題の方をまず考えてしまった。ふと、社会学者二クラス・ルーマンが環境問題について書いていたことを連想した。

あと、知らない間にコソボが独立国扱いになってたり(どうやら日本は独立を承認しているようだ)、ボリビアの正式国名が「ボリビア多民族国」、リビアが同じく「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」になってたり。

生徒「先生の頃っていいですよね、ユーゴスラビアだけで良かったんでしょ、覚えるの」
先生「…。お前ら、コルホーズとかソフホーズとかって聞いたことねーだろ?」

・・・今日のBGM・・・
 命果てるまで/ユニコーン

2010/09/22 21:20 Wed | edit? | trackback(0) | comment(0)



雨はやむと同時に降っていなかったことになった

category: ◆geography

芦原橋から自転車で帰る途中に、雨。

市岡元町辺りで激しくなって傘を買うかどうか迷いながら走っている内に雨はおさまってきて、区役所の辺りまでくると、すっかりやんでいた…というより、そもそも雨は降っていなかった。

元町の交差点を越えたくらいからか、道が濡れていなかったのである。つい30秒手前では、傘を買うかどうか迷ったくらいの雨だったのに。

さて、最初、この状況を「雨がやんだ」と表現して、しかし、そもそもやんだと思った時にいた場所には、もともと降ってさえいなかったのだから、「やんだ」は変だなということになり、じゃあ、どういうべきかと考えたのだけど、僕が世界の中心ではないという視点に立てば、相対的に動いていたのは僕なので、僕が雨が降る場所から雨が降らない場所まで移動したってだけのことになる。

でも、もしここで僕を世界の中心にして、世界の方を動かしてみたらどうだろうか。「雨が去っていった」、あるいは「雨がやんだ」で良い気もするが、もしそれでよいとすれば、それらの言葉は通常とちょっと異なる意味になってしまう。というのは、通常なら、雨がやんでも地面は濡れているはずだから。つまり、普通「雨がやんだ」と言うことは、過去には雨が降っていたと言うことを意味することになるはずなのだ。けど、僕が中心にいる世界で、今夜の状況を「雨がやむ」と言ってしまうと、その言葉は雨が降っていたという過去ごと、雨がやむことを意味してしまうことになる。要するに、「雨がやむ」=「雨がやむと同時に降っていなかったことになる」となる(んじゃないか)。

まあ、ごちゃごちゃ書いてますけど、こんな馬鹿馬鹿しい思考を刺激した元の体験をよくよく思い出してみると、単に雨が降っていた区域から雨が降っていない区域まで移動しただけのことで、その区域のスケールが思いの外小さかったために、いろいろと非日常な思考が刺激されたみたいです。スケールの大小無視してしまえば、これは、日本を飛び立ったときは晴れていたけどシンガポールはスコールだったっていうのと、同じ話でしかない。

そう考えると、「雨が降る」「雨がやむ」というそれだけの日常的な表象一つとっても、妥当とされる空間的な範囲の大きさや広がりっていうのが想定されていて、それを無意識に下敷きにしている。今夜の僕の場合、市岡元町から市岡へ移動する程度の空間的範囲は、「雨が降る/やむ」という表現にとっては不適切な狭さだったってわけだ。

で、適切か不適切か、どの程度なら適切かを振り返って再帰的に吟味してみるときには、地名が要るのだ。それなくしては、再帰的に吟味が出来ないわけ。

その昔、大澤真幸さんの第三者の審級という概念に寄せて地理的スケールとその重層性の社会的再生産を説明しようという試みを、学会で報告したことがあったのを思い出した。その時は、地名が要るという論点は思いついていなかったけど。

また、どっかで使えるといいなぁ、この話。雨の恵みになるとよいが。

___________

「移動」という概念をすっ飛ばしたら、さらに異様な世界描写が可能になる気もしてきた。僕も世界も動いていなかった(動くという概念を持っていないので、そのように世界を捉えられない)としたら、30秒経ったら眼下1.5mの濡れた地面が乾いた地面に変身した、という表現になる。目の前をバスが右から左に走っていくのではなく、目の前の空気があるタイミングでバスに変身して、やがてすぐに空気に変身する。電車や駅の電光表示板みたいなもんだ。文字が動いているのではなくて、それぞれの点がON/OFFの変身を繰り返しているだけ。

この考えのままで、空気やバスを、もっと細かい素粒子のレベルに落としていくと、物が動くとか物があるっていう当たり前の感覚の、何となく当たり前ではない不可思議な感じが、ちょいと掴めそうな気がします。空間が無秩序に有と無の間の変身を繰り返しているんじゃないとすれば、その秩序(因果)の生成は、間違いなく、時間と無縁の物としては語れないはず。

・・・今日のBGM・・・
 俄雨コンバート/MARS EURYTHMICS

2010/05/31 23:51 Mon | edit? | trackback(0) | comment(0)






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geophile
フリーランスの地理学者です。ひとり家庭教師派遣業のほか、NPOやコミュニティビジネスをターゲットに、ひとり人材派遣業もやってます。

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